母の最期と再開―喪失と再生の物語

2023/07/17

日記

t f B! P L
 

※当記事は、筆者の記録として書いています。
不快に思われる方、気分を害す、読みたくない方は、画面をお閉じください。



2023年5月、母が永眠しました。

2021年8月から、実家で母と同居していました。

容態が悪くなってからは、あっという間すぎて、哀しみというか、今も涙が出てきます。

もっとこんなことができたのではないか
もっとあちこちに連れていけたのではないか
もっと優しい言葉をかけてあげられたのではないか
ああすればよかった
こうすればよかった
・・・

そんなことを思っても、行動しようにも、もう母はいない。

たくさん迷惑をかけてごめんなさい、という思いと、これまでたくさんの愛をありがとう、という感謝の気持ちが交錯しながら、この3カ月超、過ごしてきた。

昨年、父の七回忌を、母と一緒に終えたところだっただけに、まさかこんなに早く母を見送ることになろうとは、今もまだ信じられないでいる。


2023年4月


母はよく庭の草取りをしていた。

2022年2月、大腸がんのステージ4と診断された。

同時に肝転移も認められた。

抗がん剤治療を開始したものの、副作用は極度の食欲低下、味覚障害、倦怠感がひどく、治療のたびに入退院を繰り返した。

先生と本人含め、幾度か相談の上、治療を停止した。

食欲は落ち続けていたものの、母なりに考えて、梅干し、納豆、一握りのご飯・・をがんばって食べていた。

母は長年、喫煙していた。

食欲が落ちてからもタバコだけはやめない、と言い張って台所の換気扇の下で喫煙していた。

寝室から起きてきて、リビングではソファーに座り、テレビをつけるが、動いている映像をただ目で追っているだけのような印象だった。

テレビに飽きては、寝室へ行き、横になる時間が多くなっていた。

4月に入ってすぐ、寝室から出てくることが極端に減った。

というか、ほぼ出てこなくなった。

飲料も食事もほぼ摂れていなかった母は、みるみるうちに衰弱していった。

当然だ。

心配になってきた私は、母の元へ行き、何か口にしたほうがいい、と当たり前のことを告げる。

そう、この時の私は何をどうしていいのか、さっぱりわからなかった。

母が希望するものを100%持っていくが、口にすることはなかった。

あれだけ吸っていたタバコだが、台所へ来ることはなくなった。

日に日に不安になってきた私。

母はもっと不安だったかもしれない、と今思う。

母の寝室の横にはお手洗いがある。

お手洗いには行けているのか、と聞く。

「そげなことをあんたが聞いてどうする」

と母は言う。

何もしてあげられない自分が悔しかった。

まったく頼りにされていないことも当然だ、と。


ある日、母が私にお願いをしてきた。

「病院に点滴受けに行きたい」

即、病院に電話した。

既にベッドから起き上がることすらできなくなっていた母。

看護師の方と相談し、救急車で迎えに来てもらうことになった。

2023年4月中旬



救急隊員の方が3名来られ、あっという間に、母は病院へ運ばれていった。

病院へ到着直後、主治医の先生と少し話をした。

「検査結果にもよりますが、あと1カ月だと思ってください」

あまりに衝撃が大きすぎて、ずっと放心状態だった。

そんなはずはない、という思いと、覚悟をしなくてはならない、という思いが交錯した。

母と対面したとき、衣類や下着を着替えさせてもらい、身体も綺麗にしていただいたあとで、点滴を受けていたが、サッパリした爽快感と、病院へ来た安堵感なのか、ここしばらく見たことがないくらい、穏やかな表情になっていた。

親戚が来てくれたことにとても喜び、笑顔を見せながら饒舌になっていた。


2023年5月


救急車で運ばれた日から、そのまま入院になった。

仕事は、入院した日からしばらくの間お休みすることにした。

毎日病院へ行った。

面会は、家族2名のみ限られた時間だった。

入院してしばらくは、話ができていたが、5月に入ると、ほぼ目を閉じて眠っていた。

それでも私は、毎日、日々の出来事を話していた。

耳だけは聞こえている、と何人もの人から聞いていた。

身体のむくみが日に日にひどくなっていたので、毎日行ってはマッサージをした。

マッサージや口腔ケアは姉に習った。

髪を整え、顔を拭き、口腔ケアをして、手足のマッサージ。

私にできることはこれだけだった。

あとは手を握り、マッサージをしながら日々の出来事を一方的に話をしていた。

2023年5月中旬


毎日行っている病院から電話がかかってくると、ビクビクしていた。

ある日その病院からの電話が鳴った。

「血圧が下がっているので、早めにお越しください」

病院へ着くと、相部屋だった病室が個室に移されていた。

主治医の先生から「今夜が山場かもしれません」と告げられる。

嘘でしょ。嘘だ。いやだ。

何度も心の中で叫んだ。

現役看護師である同行した姉の見解を聞いた。

「先生はああ言ってるけど、まだ大丈夫」

確かに下がっていた血圧は、平常値に戻っていた。

看護師の方々から、病室に泊まれるように準備します、と言われた。

姉と話し合い、帰宅した。

次の日病院へ向かうと、母はいつものように眠っていた。

血圧は安定していた。

ホッとした。

危篤の知らせを聞いた親戚が病院へ来てくれた。

母の姉兄とその子どもだち。

病室は、緊張感でいっぱいだった。

それぞれが、耳は聞こえていると信じ、母の名前を呼び、自分の名前を名乗り、話しかけた。


「今夜が山場」と言われて6日後、母は静かに息を引き取った。

お別れ


母は無言の帰宅をした。

父が他界してからは、ほぼ一人で過ごしていた母。

この家を守るために懸命だった母。

心からありがとう、の気持ちでいっぱいだった。

長年過ごしてきた自宅に帰ってきたよ。

救急車で運ばれたあの日が、自宅で過ごす最後の日になるとは、あの時想像もしていなかった。

仮通夜、通夜、葬儀、初七日、四十九日、納骨。

たくさんの人たちが弔問に来てくださった。

母のことを知らな過ぎる自分が情けなかった。

できることを精一杯やった、つもり。

親戚の方はもちろん、母の友人の方々も、皆さんからたくさんのお悔やみと励ましの言葉を頂いた。

感謝しかない。

母への感謝と、関係の皆様への感謝。

諸手続き



哀しみとともにやらなければならない事項がたくさんある。

それは父のときに経験していたとはいえ、今回はほぼ私一人で行った。

市役所へ行く、各所へ電話する、複数の申請書類を書く。

同時に香典返しの品選び、手配、四十九日のご案内、会場選び、食事の用意・・・

四十九日までは何が何でも頑張る、自分と約束をし、懸命にやった。

毎日行っていた病院から、自宅の祭壇で手を合わせ、小さくなった母へ話しかける日々。

納骨が終わると、祭壇も片付けられた。

自宅は、私が引継ぎ暮らしていくことにした。

不動産ほか、必要な相続手続きについては、司法書士の先生にお願いした。

ようやくその手続きも完了し、残るは金融機関の手続きのみとなった。


仕事は、6月から再開した。

約1カ月半、お休みさせてくれた関係各所へも感謝の気持ちでいっぱいです。

再開時、このまま仕事ができるのか、休んでいた間のことを把握するのが不安だったが、そんなことは数日で払拭された。

少しずつ、日常を取り戻すことができたのは、周りの方々の理解と協力と支えがあってのこと。

来月は初盆を迎える。

これまでは母に任せっきりだった家のこと、しっかりやっていきます。

といっても完璧を求めるときついので、8割できればよし、の感覚で。


父が大好きだった母。

母が大好きだった父。

二人ともいなくなって今も涙が出てきてしまうくらい、寂しいけれど、父と母が残してくれたこの家で元気に過ごすことが、両親にとっては嬉しいのかなと、勝手に思い、ゆるりと生きていきたいと思う今日この頃です。


ブログも少しずつ再開していきたいと思っています。

YouTubeもしばらくお休みしているにも関わらず、チャンネル登録してくださる方が日々増えていて驚きとともに、感謝です。

動画投稿も再開する予定です。撮影、編集が終わり次第。

長文、最後までお読みいただいた方がいらっしゃるかわかりませんが、お付き合いいただきありがとうございました。

同居の家族がいなくなりましたが、私の心の中には両親がいます。

一緒に過ごしているつもりで、これからも健康に気を付けつつ、元気にやっていきたいと思います。




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