西鉄久留米駅 |
久留米へ行ってきました。
いつぶりかわからないくらい、久しぶりに訪問しました。
学生の頃は、ここ久留米が最寄りの都会で、よく遊びに来ていたんですよね。
懐かしい気持ちでいっぱいです。
大人になってからは、車で行くばかりでしたので、こんなに久留米を歩いたのは初めてだと思います。
実は今回、レンタサイクルで散策する予定でした。
西鉄久留米駅にある観光案内所で聞いたところ、「久留米市コミュニティサイクル」は休止中とのこと。
Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン
ならば歩くか。
と、日頃の運動不足解消を兼ねて、歩き出しました。
気温20℃
ポカポカ陽気の中、たくさん歩いて、気持ちよかったです。
久留米市
福岡県の南部、筑後地方に位置しています。
福岡県では、福岡市、北九州市に次いで第3位の人口です。
令和3年3月1日現在
人口:304,131人
面積:229.96平方キロメートル
―引用元:久留米市HP
平成7年から継続して人口約30万人をキープしているようです。
久留米城址
篠山神社
久留米城の歴史は古く、永正年間(1504~1522年)に在郷勢力が築いた久留米城(笹原城)が前身だそうです。
天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州平定後、大友宗麟の娘婿である毛利秀包(もうりひでかね)が入封し修築。
秀包は、関ケ原の戦いで西軍に与して改易され、城は柳川城の田中吉政の支城となりました。
田中家が二代で無嗣断絶後、有馬豊氏(ありまとようじ)が入り、約70年かけて大規模な改修を行い完成させました。
その後、江戸時代約250年、ずっと有馬家が久留米を治めていました。
現在、久留米城址は、有馬豊氏ら5人の有馬家当主を祀る篠山神社となっています。
幕末に、久留米藩志が登場していたのは記憶にありました。
特に「真木和泉」の名前は印象に残っています。
詳しくはこちらへ → 人物事典 幕末維新風雲伝
篠山神社HPでは、久留米城写真と詳細な歴史が掲載されています。
公式ページ →
篠山神社HP
立派な石垣が出迎えてくれました。
一気にテンション上がります。
<久留米城データ>
城地種類:平城
築城年:天正15年(1587年)、元和7年(1621年)
築城主:毛利秀包、有馬豊氏
主要城主:丹波氏、毛利氏、田中氏、有馬氏
別名:笹原城、篠原城、篠山城
↑拝殿。
参拝したら、見学していきましょう。
本丸
拝殿と本殿の横は芝生となっていました。
この場所に本丸があったとは、相当な広さだったことが想像できます。
周辺には、大きな大きな木がたくさんあって、神聖な空気に包まれている気がしました。
↑御神木。
相当年数が経っていると思われます。
大きくて立派な御神木でした。
遺構
大井戸 |
井戸が残っていました。
中を覗いてみましたが、底は見えず、周りに石などがなくて試せませんでした。
深いと思われます。
巽櫓跡 |
月見櫓跡 |
残っている石垣や眺望が素敵すぎました。
↑このグラウンドは、久留米大学 医学部グラウンドだそうです。
その向こうには、久留米大学病院があります。
↑こんなところをテクテク歩いていきます。
新緑が美しくて、気持ちがいい!!
石垣
石垣好きとしては、ワクワクが止まりません!
高石垣が続きます。
↑石垣の隙間が駐車場になってました。
400年経った今でも、こんなに立派な高石垣を見ることができて感無量。
↑少しだけですが、堀もありました。
大満足です。
久留米城って、こんなところだったんだなと、よくわかりました。
豊臣時代から、江戸時代、そして幕末。
長い歴史とともに、いろんなことが繋がっていきました。
豊臣時代の九州は、朝鮮出兵や大友宗麟が欠かせません。
関ケ原後は、勢力が一変しますが、そこで、私の地元「柳川」と関わっていることがわかりました。
柳川は豊臣時代の立花宗茂(田中家無嗣改易後、柳川に返り咲く)が有名ですが、実は田中吉政も城下町や、現代でも主要な道の整備で大きく貢献しました。
久留米城が、そんな田中吉政時代の柳川城の支城となっていたとは、知りませんでした。
大変勉強になりました。
話はガラッと変わり、、、
競馬の「有馬記念」って聞いたことありますか?
競馬をしないので、中身はさっぱりわからないのですが、どうやらその「有馬記念」の有馬とは、有馬14代目有馬頼寧(よりやす)氏の功績を讃え名づけられたようです。
へえ~(×10)
続日本100名城
久留米城は、続日本100名城に指定されています。
No.183 久留米城
スタンプは、篠山神社 社務所にあります。
社務所は、拝殿の左側にあります。
篠山神社境内となります。
マナーを守り、参拝して、気持ちよくスタンプを押していきましょう。
長くなりましたので、次回へ続きます。
次回は、食とアクセスについてです。
では。