いよいよ天守へ。
本丸の北寄り、高石垣の上に天守や櫓が密集し、迷路のようになっています。
合わせて21棟の重要文化財と復元建築とが見事に組み合わされています。
現在の三重の天守は、江戸時代の火災のあと、幕末に再建されたもので、創建当初は五重の天守だったのだそうです。
窓枠は必須のチェックポイント。
はい、混んでます。
↑壁には鉄砲を打つための狭間があり、ここは二人が座れるようになっています。
天守最上階。
この天守は、各階に天井があり、床の間がある↑など、生活空間としての備えがあります。
これもやはり、天守に住んだという織田信長以来の伝統を思わせます。
松山城を築いたのは、加藤嘉明です。
幼くして両親を亡くした嘉明は、馬の仲買人に育てられました。
岐阜の城下で偶然、豊臣秀吉の家来に拾われ、やがて秀吉直属の武将となりました。
嘉明にとって、これだけ大きな城を手がけるのは初めてのこと。
慶長7年(1602年)に工事開始。
25年もの歳月をかけた大事業でした。
嘉明や家臣、領民たちの努力と25年の歳月をかけて豪壮な天守や城が姿を現した頃、加藤家は突然、幕府から領地替えを命じられます。
寛永4年(1627年)のことで、松山城のあまりの見事さがかえって幕府の疑念を招いたとも言われています。
嘉明は、所領の倍増と引き換えに、名城松山城を明け渡し、会津若松に移っていきました。
その後、城には蒲生家のあと、久松松平家が入り、江戸時代15代に渡って藩主を務め、幕末維新を迎えました。
噂通り、いやそれ以上に素晴らしかった松山城。
連立式天守というだけで、やっぱり存在感が大きく違います。
見事な松山城、たっぷり堪能させてもらいました。
あまりに写真を撮っていたからか、あまりに石垣を凝視していたからか、ガイドのおじさまのほうからお見えになり、濃いお話を聞くことが出来ました。
貴重な現存天守の一つです。
これからも守り抜いていってほしいと心から思いました。