5月3日(日) 1城目
前日、今治から丸亀へ再び特急で移動しまして、
1日目は丸亀のホテルに宿泊。
そのホテルから徒歩でやってきました。
丸亀城といえば日本一の石垣。
まー、ものすごい立派な石垣を目の当たりにし、テンション上がらないわけがありません。
大手一の門を入ると、丸亀城内観光案内所兼お土産屋さんがあります。
そこで、城内マップをもらい、おじさまに見学コースを教えていただきました。
私は、この高石垣をたっぷり見たかったので、三の丸下段の帯曲輪をぐるっと見て回ることにしました。
で、その観光案内所横にあるこの↑坂(見返り坂)からスタートです。
見返り坂を上りきったところに、↑扇の勾配が見事な石垣が現れます。
ここを曲がるとすんなり天守へと行けるのですが、私はここを石垣沿いに入ります。
とにかく、とにかく高石垣の連続で圧巻です。
あまり人が歩いていないのですが、一人テンションMAX(笑)。
ただ歩くのはとてももったいなくて、かなりジロジロ石垣を見ながら歩きました。
たまに見かけるこれ↑は、排水溝ですよね。
三の丸の石垣は一番高いところでおよそ22m。
下のほうは緩やかに汲み、頂は垂直になるよう独特の反りを持たせ、扇の勾配と呼ばれています。
熊本城を築いた加藤清正以来、城づくりの名人と呼ばれた大名たちが踏襲してきた技法です。
↑三の丸井戸
山崎時代の絵図にある井戸で、深さ31間と書かれていますが、現在は空井戸。
抜け穴伝説があるそうです。
そろそろでしょうか。
来ました!
丸亀城天守!
本丸に鎮座する天守、四国では最も古く万治3年(1660年)、山崎氏のあと、藩主となった京極高和によって築かれました。
高和は、城の裏口にある海側の搦手門を大手門に変えました。
その大手門から見上げる石垣の端に天守を築き、城の正面としました。
高さ15m、三層三階現存木造天守は、現存する12の天守の中で一番小さな天守とされています。
石垣の端に建てたせいか、海側に向けやや傾いでいるようにも見えます。
唐破風や千鳥破風の意匠を施した白亜の天守。
正面から見ると、堂々とした佇まいを見せています。
さあ、中に入りますよ。
それから窓枠。
階段もいい味出てます。
文久元年(1861年)、丸亀を、土佐藩を脱藩する前の坂本龍馬が訪れました。
剣術戦技という名目で旅をしていた龍馬ですが、本当の目的は長州。
長州の討幕運動を探りにいく旅の途中のことでした。
「竜馬がゆく」の中でも、竜馬が丸亀に一ヶ月滞在していた場面をしっかり覚えていて、ずっと行ってみたいと思っていたので、来ることができて本当に嬉しかった。
龍馬が訪れたときの丸亀藩は、鎌倉時代近江を支配していた佐々木源氏の流れを汲む武門の名門、京極家が藩主でした。
それゆえ、上方との交流が深く、海鮮を使った商いにも熱心な土地柄でした。
亀の甲羅を置いたような標高66mの亀山の上に建てられている丸亀城。
その特徴は、巨大軍艦を思わせる、城の周りを覆い尽くしている重厚な石垣です。
高く積み上げられた石垣の城は、寛永20年(1643年)、藩主山崎家治が、廃城となっていた城を改修し、築き上げたものです。
山崎家治は、これ以前、三年に渡って天草を治めていました。
島原の乱によって荒廃した地の戦後処理に実績をあげ、城づくりの名人としても知られていたのです。
幕府は、その家治に当時瀬戸内の島々にいたキリシタンの放棄に備えるための城を作らせたのではないかと考えられています。
幕府からは、銀300匁を与えられ、参勤交代を免除されての突貫工事で高石垣は作られました。
海に向いた側の石垣を特に強固にし、内堀から天守に向け、四段階に積み重ねられた石垣の高さは、およそ60m。
日本一の高さです。
丸亀にやってきた龍馬は、ある目的を持っていました。
丸亀藩の藩士の中から討幕の志をもつ人物を見つけ出すことでした。
龍馬が出向いたのは、丸亀城の西側の外堀に面した矢野道場。
司馬さんは「竜馬がゆく」の中で、竜馬と松木善十郎を矢野道場で戦わせています。
世の中が騒乱のときを迎えようとしていた幕末、歴史の扉を押しあけようと奮戦していた坂本龍馬。
剣を通じ、丸亀藩でも同志を見つけた龍馬は、やがて長州へと向かいます。
わずかひと月ほどの滞在でしたが、龍馬はここ丸亀で白亜の天守と高石垣の丸亀城を眺めつつ、維新への思いを募らせていったのです。。
というわけで、四国二日目は丸亀城からでした。
来たかった丸亀城を堪能まして、丸亀駅から快速に乗車しました。