下りのロープウェーから撮った写真↑
信長居館跡では菊人形展をやってました。
板垣退助像も隅のほうにありましたが、探してしっかり写真におさめる(笑)
信長が築いた居館は凄かったんだろうな。
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この濃尾平野をひと目で見おろす城を手に入れたとき、信長はつくづく道三の地相眼や築城のたくみさに驚嘆した。
長良川を天然の外堀にし、稲葉山そのものをことごとく城塞化し、城門と城外の道路をたくみに結合させて守るにも押し出すにも絶妙の機能性を発揮できるようにつくられている。
自然、この城塞そのものについては、信長がことさらに新工夫を加えるという点はほとんどない。
城塞は修築するだけにとどめ、むしろ山麓の居館の新築と、城下の構造変えに信長は意をつくした。
ところがこの城を得、この城にときどき泊まるようになってから、
(道三はさほどの人物ではなかったな)
と、信長は思うようになった。
山上の城塞は不便すぎるのである。
なるほど堅牢そのものだが、いざ住んでみると、堅牢すぎることが城主としての心の活動(はたらき)をにぶくするのではないかと思われた。
防衛にはいい。
そのよすぎることが、殻の中にいるさざえのように清新溌剌の気分を失せさせ、心を鈍重にし、気持ちを退嬰させ、天下を取るという気持ちを後退させる。
そのように思われた。
(おれは若い。若いおれが、これほどの金城湯地を持つ必要がない。持てば気持ちがおのずと殻にひっこむようになる。
つねに他領に踏み出し踏み出しして戦う気持ちがなくなればもはや、おれはおれではない。)
「国盗り物語」より抜粋
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この広い敷地に石垣だけが残っていましたが、もんのすごい妄想が膨らみました。
壮麗な宮殿は四階建てだったそうです。
一階には、二十の座敷があり、釘隠しはことごとく黄金を用い、
二階は、濃姫の部屋を中心に侍女のための部屋がならび、座敷は金襴の布を張り、城下と稲葉山がみえるように工夫されていて、
三階は、茶時のために用い、
四階は軍事上の望楼として用いられていた。
どうしても織田信長の名前が強くなっていますが、
前記事でも書いたように、斉藤道三が作り上げた城郭と城下町。
道三没後、信長が難攻不落の稲葉山城を攻め落とし、美濃を手にして、
名前を岐阜と改めたのです。
あ~念願の岐阜城へようやく行くことが出来ました。
大・大満足でございました。