日曜の朝ラン、ちょっと寄り道

2025/04/06

日記

t f B! P L
 

昨日は昼間こそ晴れていましたが、夕方から急に雨雲が立ち込め、雷とともに風雨に見舞われました。

一夜明けた今朝は打って変わって、快晴の青空が広がりました。気温も高く、Tシャツ一枚でジョギングへ。

コースはいつもの道ですが、今の時期は桜が咲き誇っていて、言葉では言い表せないほど気持ちのいいランニングになります。

途中、久しぶりに「柳川城跡」に立ち寄ってみました。


参考↓

2021年12月撮影

車で行くことも可能ですが、道幅が狭いため、Uターンなどは難しいのでご注意ください。

2021年12月撮影

↑この道をまっすぐ進むと、左手に入り口があります。


柳川城跡
 柳川市大字本城町88-2番地
 柳川市史跡指定 昭和53年5月1日

 柳川城は、永禄年中(1558-1569)蒲池鑑盛(かまちあきもり)によって本格的な城としてつくられたもので天然の要塞である
水の利を充分にいかした平城で堀をめぐらし、扉の開閉によって城内の水が増減出来るようになっていた。
 鑑盛の子鎮漣(しげなみ)に至り天正8年(1580)龍造寺による数ヶ月に及ぶ攻撃に耐え柳川城攻略を挫折させた。
翌年龍造寺により佐賀に於いて謀殺されその一族もすべて殺害され応永以来の蒲池一族は滅亡した。
 天正12年(1584)大友勢の筑後攻略にも柳川城には一指だも染め得なかった。
 天正15年(1587)立花宗茂が豊臣秀吉の九州平定に際してその功により筑前立花城より19歳で当地にうつされたが慶長5年(1600)関ヶ原役において西軍にくみしたため在柳わずか13年にして解任された。この後に岡崎城主田中吉政が筑後一円32万石余の領主として入国し柳川居城とするに及び石垣を更に高くし天守を築き従来にも増して防備を厳重にした。
 戦国動乱の二度に及ぶ攻撃にも陥落しなかった本城はここにおいていよいよ天下の名城としての名声をたかめた。
 当時人々が(柳川三年肥後三日肥前久留米は朝茶の子)と言ったのは柳川城の堅固さを如実に物語ったものといえよう。
 元和6年(1620)田中吉政の子忠政に後継なく断絶したため奥州棚倉1万石より12万石の領主として立花宗茂が再度当地に入国した。以来明治維新を迎えるまで250年間立花藩の居城であった。
 ー後略ー
柳川市教育委員会

柳川城は、永禄年間(1558〜1569)に蒲池鑑盛によって本格的に築かれた平城で、水利を活かした堀が特徴です。
その後、立花宗茂や田中吉政らが居城とし、堅牢な名城として名を馳せました。

現在は天守こそありませんが、天守跡地は整備され、周囲には美しい桜が咲き誇ります。隣接する柳城中学校や柳川高校からは、野球部の元気な声も響いていました。


中央にはお地蔵様が祀られており、以前はなかった記憶があるので、ここ数年で新たに建立されたのかもしれません。
手を合わせ、「この地を見学させていただきます」と合掌しました。



奥へ進むと、立花宗茂公と誾千代の案内板が掲げられていました。


一見すると広々とした空間ですが、ここにかつて天守が建っていたことを想像するのが、この場所の醍醐味です。
そう、想像力! ですね。

柳川城の復元運動が進められていることもあり、今後どうなっていくのかも気になるところです。
莫大な費用がかかることは想像できますが、何より大切なのは、「柳川」という土地がどんな歴史を経て今に至るのかを知ることだと思います。

市民の皆さんが、どれだけその歴史を知っているでしょうか。

立花宗茂の名前が有名ですが、個人的には田中吉政公の功績も非常に印象に残ります。
もちろん、立花家が250年もの間この地を治めたという事実も、尊い歴史です。



久しぶりに、柳川の歴史に触れた朝でした。

いつものジョギングコースですが、そんな場所に歴史が溶け込んでいるということに、あらためて気づかされます。

「昔があるから、今がある。」
人と人が紡いできた時間が、今をつくっているのだと実感したひとときでした。

帰り道では、通りがかりの方から声をかけていただいたり、顔なじみの方に会ってご挨拶。
とても喜んでくださって、思わずハグされるほど(笑)。やっぱり、近所を走るっていいなあと感じました。

気持ちの良い、春の朝でした。

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