2016年7月17日(日)
首里城に行ってきました。
沖縄は数えきれないほど足を運んでいますが、今回は久しぶりで9年ぶり。
9年前は城に興味がなかったので、首里城を訪れたのは初となりました。
サンサンと照り付ける沖縄の太陽の下、丘の上にある首里城へ汗だくで登城してきました。
琉球石灰岩で積み上げられた弓なりの石垣が見事でした。
今見る首里城の形がほぼ整うのは、1477年に即位した尚信王の時代です。
尚信王は、在位50年の間に、城と城下町を整え、琉球王国の礎を築いた名君とされています。
尚信王が築いたといわれる、北の外郭。
ほぼ垂直に切り立った城壁はところどころ曲線を描いています。
沖縄各地の城(グスク)にも見ることができる琉球独自の形です。
守礼門。
昔、遠くからこの門を見たのは記憶にあります。
そのまま通り過ぎてました(笑)
今回はこの門を抜けまして、
歓会門(かんかいもん)から入りました。
外郭と同時に築かれた歓会門。
この門は、首里城の城郭内に入る第一の正門です。
「あまへ御門(うじょう)」ともいいます。
「あまへ」は沖縄の古い言葉で「歓んで迎える」を意味しており「歓会」はその漢訳です。
続いて、漏刻門(ろうこくもん)。
漏刻とは、中国語で水時計という意味。
この門の上の櫓の中に水で時間をはかる水槽(水時計)が設置されていました。
門をすぎた広場には日時計があり、その二つで時刻をはかり、太鼓をたたいて時を知らせていたそうです。
首里城正殿。
写真で見たことある!ある!
中に入れます。
写真撮影もOKです。
正殿前の御庭(うなー)と呼ばれる広場では、中国の冊封使を迎えて、王の即位式が盛大に行われました。
式瓦で色分けされた横の線は、儀式の際に人と道具類を配置する目安。
中央は、王と近客のみが通れる道です。
御差床(うさすか)。
王家の催事が行われたところです。
王の座った椅子は、尚信王の肖像の絵を基に作られました。
思っていたより綺麗に復元されていて、展示も見やすかったです。
最後の写真↑は、王冠ですよ。
正殿の最も目をひくところは、この唐破風妻飾(からはふつまかざり)。
唐破風の妻壁中央に火焔宝珠(かえんほうじゅ)と大蟇股(だいかえるまた)、両脇には金龍と端雲の彫刻が施されています。
龍は国王の象徴であり、国の守り神。
正殿だけでも33の龍を見ることができます。(全部見つけたらすごい)
正殿では、重臣たちによる会議や儀式が行われました。
戦争で跡形もなく破壊された首里城。
少しずつ復元され、城の中心となるこの正殿が完成したのは、平成4年のことでした。
このあとは、南殿、北殿と見学しまして、外にぐるっと回ってみました。
沖縄独特ですよね、アーチ門。
琉球石灰岩は、やわらかいので加工しやすいのだそうです。
沖縄では、12世紀ごろから按司(あじ)と呼ばれる首長が各地を統治しており、その拠点となったのが「城(グスク)」という城砦でした。
1429年、首里を居城とする尚巴志が統一権力を握り、琉球王国が成立しました。
尚巴志は、首里城に外苑と人工池龍潭(りゅうたん)を造り、万人に開放して太平の世のシンボルとしたのです。
琉球王国は、中国の交易によって繁栄しました。
冊封(さくほう)とは、中国の皇帝が諸国の王の地位を安堵することで、中国は冊封関係を結んだ国とだけ貿易を行っていました。
沖縄では昔から、海の彼方である国、ニライカナイから神々がやってきて、富と幸福をもたらすと信じられてきました。
その神が降り立つ、御嶽(うたき)。
御嶽は岩や森、泉などにある聖域で、人々の信仰の場所です。
特に、斎場御嶽(せいふぁーうたき)は、琉球王国最高の聖地で、国家的な催事が行われた場所でした。
首里城の中には、京の内といわれる広大な聖域があります。
この中には、重要な国家儀礼が行われた御嶽がいくつもあって、神に仕える女性たちによって国家繁栄の祈りが捧げられていたのです。
まさに琉球王国の中心だったのです。
汗まみれで登城し、途中沖縄恒例のスコール的な雨にも見舞われました。
琉球王国の中心だった首里城を沖縄最初に訪れることができてよかったです。
独特の城郭ですが、新鮮でもありました。
そしてここは、日本人以外の人ばかりなのにも驚きました。
日本100名城沖縄一城目、完了です。