5月4日(月)みどりの日 つづき
天守は、南北に千鳥破風、東西には唐破風をつけた、安土桃山時代の様式です。
さてさて、激混みの中ではありますが、いよいよ天守&本丸御殿の中へ入ります。
入ってすぐは、まず本丸御殿です。
司馬遼太郎「功名が辻」はもちろん読了済。
これが原作となった大河ドラマ「功名が辻」も視聴済。
そんな人には感慨深い↑がお出迎え。
慶長5年(1600年)、遠州掛川城主山内伊右衛門一豊は、関ヶ原の戦の功により土佐に封じられました。
本丸御殿は、天守につながって建てられました。
築城当初、二の丸御殿ができるまで一豊と千代が暮らしていたところでもありました。
一豊は、度々浦戸城から築城現場を訪れましたが、一両具足の陰に脅え、いつも影武者を引き連れていたといいます。
↑書院
一豊は、前の居城掛川城を模して城を作りました。
そのため、高知城には戦国時代の戦略的な工夫を見ることができるのです。
天守を含め、15の建物が江戸時代の再建を経て築城当時の姿を残しています。
興奮のあまり、暑さのあまり(登城の際の暑さで汗だくのため、ここで半袖になりました)、
↑上段ノ間なのに、柱入りの構図になっちゃった。。。
天守に入るとすぐにいつもの床から。
いつもの窓枠だって、高知城は扉付。
↑個人的には、滑り止めなしの、ありのまま階段が好みなのです。
天守最上階は文句なしの眺望。
一豊が特にこだわったのは、最上階のこの↑高欄でした。
天守の高欄は、江戸時代には作られなくなっていました。
家老から目立つ、と忠告されたため、わざわざ家康に許可を得て作ったといいます。
階段横にある↑こんな部屋だって見逃さないよ。
現存建造物は絶対火気厳禁。消火器はもちろん、水入りバケツ必須。
着工から2年後、城の完成を待たずに、初代土佐藩主山内一豊は、高知城に入りました。
とにかく、ここまでの過程を本で読んでいるだけに、一豊と千代の気持ちになっていました。
掛川城へ行ったときも感慨深いものがありましたが、その後ようやく築城したこの高知城をどうしても見たかったのです。
現存12天守の一つでもある高知城、本丸御殿と合わせて現存しているのはここだけです。
望楼型といい、高欄といい、野面積石垣といい、なにより現存建造物ばかりの高知城は私が好む城郭をすべて含んでおりました。
高知城には、初めて一国一城の主となった一豊の思いが込められているのです。
その後、町割りが行われ、上士と下士と侍も分かれ、対立や反乱が絶えず、幕末にはあの坂本龍馬という人物が世に出ていくのです。