私は城が好きである。あまり好きなせいか、どの城址に行っても、むしろ自分はこんなものは嫌いだといったような顔を心の中でしてしまうほどに好きである。(司馬遼太郎 『街道をゆく 大和・壺坂みち』より)
島原城に行ってきました!
雲ひとつない青空と桜と城、これ以上あるのかってくらいのお天気に恵まれ、大満足の日帰りひとり旅でございました。
今から370年前。
キリシタンによる島原の乱の舞台となった島原城。
白亜の天守や櫓は、築城当時の姿で昭和に復元されました。
城は、島原半島の北東部に位置し、背後には雲仙岳の山々がそびえています。
司馬遼太郎は、『街道をゆく 島原・天草の諸道』でこの地を訪れ、島原の乱について取材しました。
半島の脊梁に大火山を隆起させ、大小の入り江を湾入させつつ、どの渚においても、穏やかな内海の波が打ち寄せているこの土地は、美しい風景のわりには、水田が少ない。
米が貨幣でもある家康の世には、その点魅力のある土地とは言えなかった。
そのうえキリシタンが多い。
司馬遼太郎 『街道をゆく 島原・天草の諸道』より
城は、寛永元年(1624年)に完成しました。
一国一城令が発令されたあとに、わずか4万石の大名が周囲4kmもある巨大な城を築いたのは、極めて異例のことでした。
しかも(松倉)重政は、本丸に高さ33m、五層の大天守を築いたのです。
この天守閣は五層ながら中国によくある塔のような形をしている。
つまり破風がない。
どの天守閣もその造形を美しくしている要素は破風であると言っていい。
五層の屋根が、単に三々九度の盃を五枚重ねたような型では、無愛想で間が抜けている。
間を入れて、全体の銚子を破り、形を複雑にしたのが、天守閣における破風の役割で、力学上必要なものではなく、あくまでも飾りなのである。
重政がそれを用いず、三々九度の盃を重ねた式にしたのは、天守閣の窓から、既に閣内に入っている敵を討ちおろすことをのみ、想定してのことであったろう。
破風があってはそれが邪魔をして、討てない角度が出来てしまうのである。
このような発想の上に想像をめぐらしていくと、やはり重政は、家康から安に要に期待されているように、キリシタンとの戦いを想定して、この城の構造を考えたのだろうかと思えてきたりするが、そのことの詮索はしばらくおく。
司馬遼太郎 『街道をゆく 島原・天草の諸道』より
司馬さんは、キリシタン禁制の時代に築かれたこの城が、本丸に篭城して戦うことを想定したものだと考えました。
複雑で堅牢な造りの閣内は、石垣と塀で築かれた帯郭に幾重にも囲まれています。
さらに石垣は、攻撃の死角をなくすため、角をいくつも設けてあるのです。
っと、このあと避けては通れない、領民を絞る過酷な時代が島原にくるのですが、それから目を背けることは到底できないのです。
ここでは書きませんが、
天草四郎の像がなぜここにいるのかは、ぜひ島原城へ行っていただければわかると思います。
島原の乱によって、キリスト教は徳川の世を揺るがす脅威とみなされ、やがて日本は鎖国へと向かいます。
島原城は、歴史から忘れさられたキリシタンの存在を今に伝えているのです。
っと本記事は概要を中心に書いてみました。
長くなりましたので、リアルレビューは次回。